パパ1年生のパパ頭さんが、家族と過ごす何気ない日常の中で感じたことを徒然と書いた日記。
第四回は、親以外の人との関わりも、子どもの成長には必要不可欠なんだと気づいた時のお話です。
その子の背中を、息子はずっと見ていた
公園でのできごと。
息子に連れ添って散歩をしていたところ、2歳半くらいの男の子が隣にやってきて、息子に「こんにちは!」と挨拶をしてくれた。
息子は花が咲いたように嬉しそうな顔をして、「おっ!おっ!」と声を出した。
本当は挨拶を返したいのだろうが、まだ言えないのだ。
男の子は「見ててね」と言うなり、四肢を器用に動かして、目の前にあった石の壁を登り始めた。
息子もその様子を見て真似しようとしたものの、足をうまく凹凸にひっかけることができない。
そうこうしているうちに、遠くから男の子を呼ぶお母さんの声が聞こえてきた。
「ママ!」と応えて、走り去っていく男の子。
その後を、息子も必死に追いかけるも、みるみるうちに距離が開いていく。
これは無理だと思ったのか、やがて息子の足が止まった。
もう随分小さく見える男の子は、無事にお母さんと合流し、公園から去っていく。
その様子を、息子はじーっと見つめていた。
私が声をかけるも振り返らず、しばらくそうして見つめていた。
「両親とともに過ごす時間」が全てではない
これは、あくまで私の個人的な考えに過ぎないが、私は、幼少期の子育てにおいて最も大切なことの1つは「両親とともに過ごす時間」だと信じてきた。
見知らぬ人々との集団生活を通じて学びを得るのは、家族の中で十分に愛情を受け取ってからだ。
だから、「両親とともに過ごすこと」には十分な時間を割いてあげたいと思ってきた。
が、最近では別の考えが生じるようになった。
子どもの成長は、私が思っている以上に早いのかもしれない。
もしかしたら、両親以外との人間や、社会と触れ合うことを、すでに子どもは求めているのかもしれない。
「両親とともに過ごす時間」は大切だが、一方でこれを過大評価することなく、他の価値とのバランスをとることも、同じくらい大切なのではないか。
私は息子に寂しい思いをさせたくないと思ってきたが、一方でまさに寂しい思いをさせてしまっているのかもしれない。
公園で遊んでいると、たまに保育園に通う子どもたちがやってくる。
ちょうど息子と同じくらいに見える子どもたちが、息子以上にたくましく、軽快に動いている様子を見ると考えてしまう。
成長を競いたいのではない。そうした子どもたちの様子が、実に楽しそうなのだ。
私は息子に人生を楽しんでもらいたいと願っているし、そのために感性や技術を得るのが学びだと考えている。
私は自身の努力によって息子に与えてあげられるものを増やすことができると思ってきたが、一方でその限界が見えてきた気がする。
私は、息子に挨拶をしてくれた、あの男の子になることはできないのだ。