パパ1年生のパパ頭さんが、家族と過ごす何気ない日常の中で感じたことを徒然と書いた日記。
お腹の中にいるわずか6ミリの子どもを見たとき、パパ頭さんは自身の「生き方」を問われた気持ちになったようです。これから生まれてくる子どもに報い、幸せにするためには、どうすれば良いのでしょうか。
子どもの人生に対する、私の責任
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「子を望む」という行為のうちには、少なからず無責任さが含まれている、と思う。
望まれたわけでもないのにこの世に呼んだあげく、幸せを完全に保障してあげられるわけでもないのだから。
私には、命というものに対するある種の信仰がある。
ずっと続く命の営みを肯定的に捉える、たとえ合理的に説明してみせることができずとも、そこには普遍的な価値が宿っていると信じている。
それは私が子を望んだ理由の一つだが、それは個人的な心情に過ぎず、無責任さを払えるものではない。
おそらくこれは、一生払うことのできないものなのだろう。
であればせめて、無責任にも呼んだ命に対して、報いることのできるような生き方をしたい。
息子には、漫画に描いた友人のような気持ちには、決してさせたくない。人生にはかけげえのない喜びがあるのだと、伝えたい。
それは必ずしも言葉だけでなく、私の人生全体からにじみ出てくるものだ。
息子の人生に対する、私の責任は限りなく重たい。
毎日それを再確認する。