パパ1年生のパパ頭さんが、家族と過ごす何気ない日常の中で感じたことを徒然と書いた日記。
第一回は、大人と子どもに見える世界の違いのお話です。幸せそうに梨を頬張る子どものように、梨に対して喜びを感じられないパパ頭さん。それは、果たして不幸なことなのでしょうか?
今の私は、喜びを感じづらくなったのだろうか?
息子のおやつに、梨を切ってあげる。
台所で皮を向いていると、待ち遠しいのか、息子が足元にやってきてせがむ。
切り終わった梨を皿に載せ、テーブルに置くと歓喜の声をあげ、すぐさま口に放り込んでしゃくとしゃくと美味しそうに食べ始める。
その様子があまりに幸せそうなので、思わず考えてしまう。
かつては私も、梨1つでこんなに喜ぶことができたのかもしれない。
しかし、今は難しい。
私は子供の頃よりも、喜びを感じづらくなってしまったのだろうか?
幼い頃は何を見てもワクワクしたものだったが、今では何だか見慣れてしまったように感じる。
私はある種の不幸になってしまったのだろうか?
「そうかもしれない…」と流されそうになるが、違うと思う。
「学び」は視野を広げてくれる
大人になっていく過程で、人は様々なことを学んでいく。学びは、人生を豊かにしてくれる。
例えば語学を学べば、世界はぐっと縮まるかもしれない。
地理や歴史を学べば、旅の楽しみは格段に増すかもしれない。
料理を学べば、台所にたつのが待ち遠しくなるかもしれない。
人生は楽しむためにあり、学びは、そのための選択肢を増やしてくれる。選択肢が増えるほどに、その人の視野は広がっていく。
息子は喜んで梨を食べるが、独力でそこにたどりつくにはまだ学びが足りない。
働いてお金を稼ぎ、梨をスーパーで購入し、包丁を使って食べやすくカットする。
これらは全て学びに支えられている。
かつて私には、梨しか見えなかった。私にとっての喜びは、それが全てだった。
しかし今の私には、その全体が見える。
梨そのものの喜びは、今も変わらずそこにある。しかし全体に占める割合は変化した。
結果として、感じ方にも違いが生じているのかもしれない。
2人別の景色が見えている。それは不幸ではない
子供の頃、東京ディズニーランドのシンデレラ城を見て、まさに物語の中の城がそこにあると感じ、心踊らせたことを覚えている。
大人になった今、改めて見てみると、城は思った程のサイズではないことに気付く。
一方その隣で息子は、城を見上げながら瞳をキラキラと輝かせている。
息子には、城が見えている。
私には、また別の景色が見えているのだ。