妊娠はするものの流産や死産を繰り返す「不育症」。原因が分かれば治療法が分かる場合もあるが、検査するもまったく異常なし。そして現在まで、いつか奇跡的に出産までたどり着けることを信じて、ただひたすら子づくりに励む日々が続く。そんななかで見つけた、養子縁組という、もうひとつの“母になる方法”。そんな42歳の編集者&バンドマンによる不妊治療と養子縁組の泣き笑い日記。連載第6回、体外受精を決心するまでの経緯。
うちの娘がすみません
「ひとつだけ不満がある」という義父の言葉。
夫の実家で初めて過ごした大晦日に、酔っ払った勢いで義父と義母に「キスしちゃえ〜っ!」と煽ったことだろうか。人妻のくせにキワドイ衣装を着て、ステージで歌ったり叫んだりしていることだろうか。
「子どもを産まんことや」
全身が焼かれるように熱くなった。きゅうっと狭く閉じてしまった喉をこじ開け、強張った頰を引っ張りあげて笑顔をつくり、「お義父さん、ごめんね。もうちょっと待っててね」というようなことを言ったと思う。
周りの誰の顔も見られなかった。特に、自分の両親の顔は。そのあとは、なにを話したか覚えていない。ただ、母が「あらぁ、うちの娘がすんません」と笑いながら、義父に謝っていたのを聞いたような気がする。
たくさんの人の前で、両親に恥をかかせてしまった。
今思えば、面と向かって「孫の顔が見たい」と言えない照れ屋な義父が、酒の力と家族と親戚と近所の人の勢いを借りて、私に発破をかけただけのことだったのだろう。
しかも、すでに2回の流産を経験してしまったことは、どちらの親にも伝えていない。つまり、親たちから見れば私は、夫をほったらかして子づくりもせず、仕事とバンド活動に現を抜かしている酒飲みの嫁なわけだ。
きっと、義父としても、やきもきしていたはず。
でも、お義父さん、産まないんじゃないんだよ。産めなかったんだよ。もちろん、私の心中などお構いなしに盛り上がる宴の席で、そんなことは言えず。
ただ、両親に謝りたい。でも、なんて謝ればいいんだろう。
逡巡しているうちに祭りは終わり、元の東京での生活が始まってしまった。
ムスメに妊活のススメ
祭りから1週間ほど経った頃、母からメールがあった。
「昨日、テレビで妊活とか不妊治療の番組やってたで。元気にしてるか? 夫婦仲良くしてるか?」
宴会では、義父の言葉に笑って応えていた母。結局、謝ることができないままだったけど、やっぱり母も、私たちに子どもができないことを気にしていたのだ。
すぐに母に電話して、宴会で恥をかかせてしまって申し訳なく思ったこと、流産をしてしまったこと、手術をしたこと、これからやっと子づくりを再開できることを伝えた。
すると、「体外受精の技術が進化しているから、どうしてもだめそうだったらチャレンジしてみたら」と。私なんぞより、よっぽど妊活の知識が豊富な母からアドバイスがあった。
妊娠のことも流産のことも、なにも伝えてなかったのに、母は敏感に私の状態を感じ取り、いろいろと調べてくれたようだった。
母の気持ちを思うと、夫の実家で無理矢理引っ込めた涙が、ブワッと一気に溢れ出た。
よし、母のためにも頑張ろう。この電話で、グイッとまた一段と顔を上げて前を向けた気がする。
その後、古巣の同僚が1歳の息子を連れて我が家へ遊びにきてくれた。それまで、赤ちゃんとか赤ちゃんを思わせるものを見るたびに、悔しくて悲しくて泣いてしまっていた私だったが、その時は本当に心から、元同僚の息子をかわいいと思った。
と、同時に、自分の心の回復を知った。
体外受精をやってみてもいいかもな。さらに前を向いて、一歩踏み出す気になった。
金も心も擦り減ると噂の体外受精、やってみるか?! 続きは第7回にて。
写真のこと:取材の合間に訪れた寺の片隅で、かわいいお地蔵さんを発見。赤いよだれかけをしたお地蔵さんを見かけると、思わず笑いかけてしまう。私だけかな。
吉田けい
よしだ けい
1976年生まれ。編集者・バンドマン。2010年、6歳下の夫と婚前同棲をスタートして早々に、初めての妊娠&流産を経験。翌年に入籍するも、やっとの妊娠がすべて流産という結果に終わる。その後、自然妊娠に限界を感じ、40歳になる2016年に体外受精を開始。2018年11月、構成・編集を手がけた書籍『LGBTと家族のコトバ』(双葉社)を出版。