妊娠はするものの流産や死産を繰り返す「不育症」。原因が分かれば治療法が分かる場合もあるが、検査するもまったく異常なし。そして現在まで、いつか奇跡的に出産までたどり着けることを信じて、ただひたすら子づくりに励む日々が続く。そんななかで見つけた、養子縁組という、もうひとつの“母になる方法”。そんな42歳の編集者&バンドマンによる不妊治療と養子縁組の泣き笑い日記。連載第5回は、掻爬手術後(そうは手術)の子づくり禁止期間について。
掻爬(そうは)手術の喪が明けるまでは
稽留流産(けいりゅう流産)となってしまった子宮をリセットする掻爬手術(そうは手術)。文字通り、掻き出してリセットする手術なわけで、子宮内膜にも相応の負担がかかるという。
手術後はしばらく、細菌の感染を防ぐための抗生物質や子宮を収縮させる薬を服用する。あと、鎮痛剤も。
つまり、子宮内はかなり不安定な状態。とてもセックスできる状態ではないし、もし、なんとかセックスして、なんとなんと受精して、奇跡的に着床したとしても、子宮内膜の厚みは十分でなく、妊娠が継続できる可能性は低いらしい。
私が掻爬手術を受けた中目黒のIクリニックが言うには、「生理を2回見送ってから子づくりを再開してください」とのことだった。
手術後は、生理のような出血……いや、生理以上の出血と痛みがあるが、これはノーカウント。手術後の出血が収まり、ちゃんと生理が始まって、やっと1回だ。
つまり、4月のはじめに手術したら、子宮の傷が順調に回復したとして、5月のはじめに生理1回目、そして6月のはじめに生理2回目。やっと、ここから子づくり再開となる。
長い。長すぎる。
妊娠していた数週間で思い描いた“子どものいる生活”を、流産によって奪われた悲しみは、もう一度“子どものいる生活”を目指して、子づくりに励むことでしか拭えなさそうだった……のに。
いや、手術後の出血が収まり、しばらくしたらセックスは可能だった。ただし、コンドーム着用で。
でも私は、とてもそんな気分になれなくて、子どもをつくれないぶん、バンドの新曲をつくったり、仕事に没頭してみたりして、喪が明けるまでの2ヶ月半を悶々と過ごした。
酒飲みの嫁の存在価値
喪が明けて、すぐに子づくりを再開したが、今までなかなかうまくいかなかったのに、そう易々と妊娠できるはずがない。
流産後は妊娠しやすい、という迷信を、ほんのりと信じていたので、7月頭にまた生理がやってきた時は、「またこの絶望感を毎月味わうのか」と心底うんざりした。
そんな7月末。毎年恒例の祭の手伝いのため、石川県の端っこにある夫の実家へ帰省することになった。
祭の期間中は、地元のどの家でも昼から宴会が開かれる。夫の実家でも、近所の人や親戚、その知り合いの知り合いなんかもやってきて、20人規模の大宴会が開かれた。
実は、夫の実家は酒販店。家には売るほど酒がある。しかし、夫も義姉も義母も、ほとんど酒を飲まない。だからこそ、酒飲みの義父は、酒飲みの私が嫁に来たことをとても喜んでくれていて、初対面の時もふたりで瓶ビール10本を空けたほどだった。
「酒飲みの嫁が来た」
義父は、そう近所の人に触れ回ったのだろう。結婚したての頃は、夫の地元で誰かと会うたびに「酒飲みの嫁さんやろ? よろしくね」と言われたもんだった。
祭の手伝いという私の仕事も、掃除や料理が主ではあったが、酒飲みの嫁としては、宴会で義父と一緒に酒を飲むのも重要なことだった。
しかも、その年は、私の両親も宴会に参加していた。そのせいか義父はとっても上機嫌で、いつもより飲みすぎているようだった。
そして、酒を酌み交わす、その場にいるみんなに向けて、こう言った。
「オレはヨシケイ(私の呼び名)のことは好きだ。でも、ひとつだけ不満がある」
なに言われるんだろうとドキドキしながら、続きは第6回にて。
写真のこと:出張先で撮影した瀬戸内の夕景。太陽が沈む前、精一杯オレンジ色に輝くのも好きだが、沈んだあと、ピンク色が空全体にぼんやりと広がっていくのも好き。
吉田けい
よしだ けい
1976年生まれ。編集者・バンドマン。2010年、6歳下の夫と婚前同棲をスタートして早々に、初めての妊娠&流産を経験。翌年に入籍するも、やっとの妊娠がすべて流産という結果に終わる。その後、自然妊娠に限界を感じ、40歳になる2016年に体外受精を開始。2018年11月、構成・編集を手がけた書籍『LGBTと家族のコトバ』(双葉社)を出版。