妊娠はするものの流産や死産を繰り返す「不育症」。原因がわかれば治療法がわかる場合もあるが、検査するもまったく異常なし。治療のしようがないまま現在まで、いつか奇跡的に出産までたどり着けることを信じて、ただひたすら子づくりに励む日々が続く。そして、体外受精を繰り返すなかで見つけた、養子縁組という、もうひとつの“母になる方法”。そんな47歳の編集者&バンドマンによる不妊治療と養子縁組の泣き笑い日記。連載45回、”育ての親”としての第一歩。
養親として再登録してから
うんでも、うまずとも、私はきっと母になる。
そう信じて、34歳で流産してから不妊治療に挑んだり、養子縁組を目指したり……、
なんだかんだで気づけば46歳になっていた。
ご報告が遅れてごめんなさい。
2022年の2月に、私は、うまずとも、母になりました。
生まれて6日で我が家にやってきた子は、すくすくと元気いっぱいに成長し、すでに1歳の誕生日を迎え、そこらじゅう走り回っています。
養子縁組のあっせん団体に養親、つまり“育ての親”として再登録したのが2021年の3月。
いまこの原稿を書いているのが2023年4月なので、2年ちょっとのあいだ、お伝えできていないことがあるわけです。
それらをまた少しずつ書いていこうと思います。
さてさて。
厚生労働省の特別養子縁組制度では、縁組成立の要件として養親の年齢は20歳以上、かつ一方が25歳以上、と定められている。
下限はあるけど、上限については記されていない。
でも実際には、あっせん団体の多くは親子の年齢差の目安を45歳以下としている。
“目安”として上限があるのだ。
私たちが養親として再登録したのは45歳になったばかりのとき。
夫は私の6歳下なので、上限に引っかかるのは私のほう。
思い返せば42歳のとき、養親登録して、待機状態にあったのに、また妊娠と流産を繰り返してしまって、受け入れをストップしたばっかりに再登録は、年齢的にギリギリなタイミングとなってしまった。
生まれたばかりの赤ちゃんを迎えることは難しいだろうな……。
そう思って、新生児よりも幼児の養子縁組に力を入れている別の団体でもぜひ登録したいと応募したが、コロナの影響もあって、面接や家庭調査が何度もキャンセルとなり、審査はなかなか進まなかった。
空からウンが降ってきた!
縁組を前提とした委託の連絡は突然だと聞いていた。
今日あたり、赤ちゃんが生まれているかもしれない。明後日には、連絡がくるかも。
ほぼ毎日、そんなことを考えて過ごした。
連絡を待って、待って、待って、待ちくたびれて、2022年1月、とうとう46歳の誕生日を迎えてしまった。
あんなに、歳を重ねたことが残念に思えた誕生日はなかった。
きっと、たぶん、赤ちゃんはうちにやって来ない。
親になることさえ、もう難しいだろうなぁ。
「このまま待っていても無理だから、養子縁組ではなくて、里親を目指そうよ」
誕生日のあと、しばらく経って、そんなことを夫に言った。
言いながら、涙が止まらなかった。
そして、その数日後の土曜の昼、夫と近所のカフェに出かけた。
歩きなれた道を、どうでもいいことを話しながら歩く。
ふと、頭上に鳥の声。姿は見えない。
まだ2月なのに春っぽいな、なんて考えた瞬間、ポタッとなにかが頭に落ちてきた。
鳥の声が聞こえる空から落ちてくるものなんて、ひとつしかない。
私の髪の毛がくるくるパーマだったから、鳥の巣と間違えたのかしら。
ともあれ……ウンがついた!
ウンがべっとりついて運気アップだ!
思えば、そんなふうに笑ってた頃、生まれた子どもの委託先として、私たち夫婦の名前が挙がったのだそう。
続きは第46回にて。待ちに待った委託の連絡が来ます。
写真のこと:シワシワしてて、ちょっぴりカサカサしてて、とっても小さくて。生まれたばかりの子どもは、命の輝きそのもの。眩しくて、見るたびに涙が出た。
吉田けい
よしだ けい
1976年生まれ。編集者・バンドマン。2010年、6歳下の夫と婚前同棲をスタートして早々に、初めての妊娠&流産を経験。翌年に入籍するも、やっとの妊娠がすべて流産という結果に終わる。その後、自然妊娠に限界を感じ、40歳になる2016年に体外受精を開始。現在は不妊治療を継続しながら、養子縁組を目指す待機養親としても登録中。2018年11月、構成・編集を手がけた書籍『LGBTと家族のコトバ』(双葉社)を出版。