妊娠はするものの流産や死産を繰り返す「不育症」。原因が分かれば治療法が分かる場合もあるが、検査するもまったく異常なし。そして現在まで、いつか奇跡的に出産までたどり着けることを信じて、ただひたすら子づくりに励む日々が続く。そんななかで見つけた、養子縁組という、もうひとつの“母になる方法”。そんな43歳の編集者&バンドマンによる不妊治療と養子縁組の泣き笑い日記。連載36回、「最後」と決めた、10回目の体外受精。
胚盤胞移植9回目
麻酔がほとんど効いていない状態で、子宮口を引っ張り広げられ、空気を入れて膨らまされたり傷口を吸引されたり(間違いなく正しい処置です)して、終わった頃にはガクブルのフッラフラになってしまった子宮内膜ポリープ手術。
今まで味わったことのないレベルの痛みだったので、しばらくは立ち直れないかもと思っていたが……喉元過ぎればなんとやら、手術の翌々日から元気に仕事をしていた。
手術から10日後の経過観察も順調で、「次は問題なく移植できますよ」と先生に言われるほど、さっさと回復していた。
凍結保存している胚盤胞は2個。
もう、体外受精もこれで最後かな。
なんとなく、そんな気がしていた。
体外受精を続けるため、養子の受け入れをストップしてから半年。
同じタイミングで養子を受け入れた養親仲間のインスタグラムを見ていると、子どもはどんどん大きくなり、彼らはますます“家族”になっている。
わたしは、どうだ。
ゴールまで至れるか分からないのに、いつまで体外受精を続けているんだろう。
こんなことをしているあいだにも、養子と出会うタイミングを逃しているかもしれない。
もうやめなきゃ。
早くやめなきゃ。
そんな焦りのなか、9回目の胚盤胞移植を受けた。
大きくて早い胚盤胞
移植のあと、培養士さんが晴れやかな笑顔で言った。
「今回のはサイズがとても大きいんです」「凍結できるまでの時間も早かったし」
大きさは202μm、胚盤胞になった時間は116時間。
確かに、今までのわたしたちの胚盤胞のなかではズバ抜けて大きいし、まぁ、早い。
でも、大きくて早いのが、どういいのか、いまいち分からない。
総合評価はBとのことで、これは例によって、わたしの年齢のせいで評価が下がっているのであるから、“若かったら実質A”というやつだ。
きっと、培養士さんはわたしに「期待していいですよ」と言いたかったに違いない。
でもわたしは、3回目の移植の時に「A判定なので期待していきましょう」と言われ、妊娠したけれども心拍が見えないまま、流産してしまったことを思い出していた。
培養士さんが、わたしを励まそうとしてくれている気持ちはとってもうれしい。
でも、もう素直に期待がもてないようになってしまっているんだ、わたしは。
ひねくれてしまったもんだね……。
ともあれ判定は1週間後。
期待がもてないとはいえ、熱っぽいと感じたり、股関節がキリキリと痛んだり、そんな少しの体の変化が、妊娠の兆候のように感じられるたび、「いや、そんなはずはない。妊娠はそんな簡単じゃない」と諌め、激しく浮き沈みしながら判定日を迎えた。
結果は……着床せず。
「やっぱりね」と強がって、メソメソしないようにして、次の移植を見据えた。
次は10回目の移植だ。
この連載を始める時、流産したばかりのわたしは、こう書いた。
「10回目までやらせてよ。そしたら、スッパリ、パッキリと、やめるから」
その10回目がやってきた。
これで最後。
スッパリ、パッキリ、最後。
胚盤胞の評価はB。
現在のわたしたちが出せる最高の評価。
移植時の子宮内膜も10㎜と、わたしにしてはふっくらしていた。
最後に……期待してもいいかな。
続きは第37回にて。
写真のこと:夏に滞在していたシカゴの街で、散歩中に出会った力強い命。トンネルの壁からスックと空に向かって仲良く立ち上がる2本の幼い木。大きくなれよ。(本当に大きくなったら壁が崩れちゃうかな)
吉田けい
よしだ けい
1976年生まれ。編集者・バンドマン。2010年、6歳下の夫と婚前同棲をスタートして早々に、初めての妊娠&流産を経験。翌年に入籍するも、やっとの妊娠がすべて流産という結果に終わる。その後、自然妊娠に限界を感じ、40歳になる2016年に体外受精を開始。2018年11月、構成・編集を手がけた書籍『LGBTと家族のコトバ』(双葉社)を出版。