妊娠はするものの流産や死産を繰り返す「不育症」。原因が分かれば治療法が分かる場合もあるが、検査するもまったく異常なし。そして現在まで、いつか奇跡的に出産までたどり着けることを信じて、ただひたすら子づくりに励む日々が続く。そんななかで見つけた、養子縁組という、もうひとつの“母になる方法”。そんな44歳の編集者&バンドマンによる不妊治療と養子縁組の泣き笑い日記。連載40回、ゆっくりとした心拍が、止まった。
ピコピコを動画に撮りたい
2019年5月23日。私は妊娠していた。
自然妊娠3回ののちの体外受精で4回。7回目の妊娠だった。
出産の経験はゼロ。流産の経験だけがズシズシと積み上がっていた。
「胎嚢が小さいし、心拍もゆっくりだから、妊娠継続は厳しいと思います」
そんな流産経験ばかりがやたらと豊富な私には、こんな先生の言葉は「諦めてください」と言っているように思えた。
きっと、このピコピコ動いている心臓もいつかは止まってしまう。
ならばせめて、できるだけ長く、おなかのなかの命を感じていたい。
立ち上がったり、歩いたり、食べたり、寝たり。
その夜は、できるだけおなかに負担をかけないように、何をするにも慎重に過ごした。
そして翌日は、かねてより予約しておいた不育症の診察のため西新橋J病院へ。
妊娠を継続しやすくするために、バイアスピリンを処方してもらう必要があったのだ。
妊娠中であることを改めて告げると、確認のためにエコー検査を受けることになり、
そこで私は思い立った。「ピコピコを動画に収めよう」と。
7回も妊娠経験のある私は、もう何度もモニターでおなかのなかを見ている。
でも、内診室に入れない夫は一度も見たことがない。
私は、どうしても夫に、小さなピコピコを見せたかった。
私たちの赤ちゃんが確かに生きていたという証拠を共有したかったのだ。
診察台に上がる前、看護師さんが「スマホ持ちました?」と声をかけてくれた。
「ハイ、準備できてます」と答えると、診察台が傾き、検査が始まった。
胎嚢が見つかった。……けど相変わらず小さい。
心拍は…………見えない。
先生は、何度も何度もゆっくりと心拍を探してくれた。
でも、やっぱり見つからなかった。
止まってしまった。
昨日まではピコピコ動いていたのに。
診察台にもたれたまま、スマホの電源を切った。
夜中に激痛で目覚めて
診察を終えて着替えていると、看護師さんが「撮れました?」と再び声をかけてくれた。
「いえ、心拍が止まっていたので撮りませんでした」と答えた。
看護師さんが言葉に詰まっているのがカーテン越しにでも分かる。
なんだかごめんなさい……。
問診を待つあいだ、そういえば今日の夜明けごろ、
下腹部がぎゅうっと引きつるように痛くて目が覚めたんだったと思い出した。
もしかしたら、あのとき、止まってしまったのかな、心拍は。
先生にそのことを伝えると、
「心拍が止まるときに痛みがあるのは考えられない」との答えだったけれど、
私は、おなかのなかの小さな命が、最後のお別れを言いたかったのか、
心臓が苦しいと言いたかったのか、何かを伝えたくて、
グーグー寝ている私に、痛みをもって叫び、訴えたんだと思う。
私は痛みでその存在を感じることができるし、エコー検査で姿を見ることもできる。
でも、夫は一度だって、ちらりとも、感じたり見たりしたことがない。
夫……めちゃめちゃかわいそうやな……、ごめん。
1週間後、もう一度Kクリニックでエコー検査を受けた。
やはり、心拍は見えなかった。
そのあとの問診では、もう流産手術の話をしていた。
手術をすると、子宮内膜が薄くなり最低2ヶ月は妊娠できなくなるので、
できることならば胎嚢が自然に排出されるのを待ちたかったけれど
子宮に残された胎嚢は2センチ以上。それが2つ。
この大きさでは自然に出てくることはないだろう、と先生に言われ、
手術する決心をするしかほかがなかった。
4回目の手術を受けた病院は激痛だったから却下。
6回目の病院は、手術直後に子宮ポリープが見つかったので不吉だから却下。
2、3回目の自然妊娠のときに流産手術を受けた中目黒のIクリニックで
手術を受けることにして、Kクリニックの待合室の廊下から電話をかけて予約し、
その日のうちにIクリニックへ診察を受けに行った。
我ながら切り替えが早いと思う。
けど、立ち止まってるとメソメソして腐ってしまいそうだったんです私は。
続きは第41回にて。
写真のこと:アメリカ旅で訪れたブルースの故郷、ミシシッピ州クラークスデールにあるライブハウスの裏口。壊れた椅子、鳴らないスピーカー、塗り込められたレンガ。生まれたときの使命を手放したものたちが、ただそこにいる景色を、ひたすら美しいと思った。
吉田けい
よしだ けい
1976年生まれ。編集者・バンドマン。2010年、6歳下の夫と婚前同棲をスタートして早々に、初めての妊娠&流産を経験。翌年に入籍するも、やっとの妊娠がすべて流産という結果に終わる。その後、自然妊娠に限界を感じ、40歳になる2016年に体外受精を開始。2018年11月、構成・編集を手がけた書籍『LGBTと家族のコトバ』(双葉社)を出版。