妊娠はするものの流産や死産を繰り返す「不育症」。原因が分かれば治療法が分かる場合もあるが、検査するもまったく異常なし。そして現在まで、いつか奇跡的に出産までたどり着けることを信じて、ただひたすら子づくりに励む日々が続く。そんななかで見つけた、養子縁組という、もうひとつの“母になる方法”。そんな42歳の編集者&バンドマンによる不妊治療と養子縁組の泣き笑い日記。連載第7回、採卵すべきか、まだ待ってもいいのかと悩む日々。
卵子も精子も元気です
2回の自然妊娠が、続けて流産となってしまったことにより、どうやら自分の身体は妊娠&出産が得意ではなさそうだぞ、と自覚。
さらには、どちらの両親も早く安心させたい気持ちがあり、37歳の12月、私たち夫婦は、新宿にある体外受精専門のKクリニックの門を叩いた。
初診では、治療方針や体外受精の流れなどの説明を受け、子宮頸がんやら感染症やらの検査を受けた。私か夫の身体に、妊娠しにくい、あるいは妊娠しても流産しやすい原因があるのかも……とも思ったが、結果は異常なし。
医師から検査結果の説明を受けながら、体外受精すれば、すぐにでも妊娠するんじゃないかな、と思った。だって、卵子も精子も子宮も健康で、2回も自然妊娠したことがあるんだから……。
さぁ、いつ採卵しようか。体外受精なんて楽勝だ。
そこで気になったのが、体外受精の費用だ。Kクリニックでは、妊娠率の下がっていく38歳をボーダーラインとして、費用が高くなるということなのだ。
採卵をするならば生理3日目に来院して、排卵促進剤クロミッドの投与をスタートする。
私の38回目の誕生日は1月29日。1月の生理のタイミングならば、ギリギリ費用が高くなる前に体外受精を受けることができる。
1月に採卵をするなら、あと数週間しかない。するか? しないか?
私はしなかった。その頃の私は、まだ自分の自然妊娠能力を信じていた。あと、もうちょっとだけ、自力での妊娠にチャレンジしてみたい。そう思ったのだ。
それでもやっぱりダメなら、体外受精ですぐに妊娠できるから大丈夫だ、ここで焦ることはない、と。
“ひめはじめ”で運試し
そうと決めたら、今まで以上に子づくりに励もう。ちょうど正月休みは目の前だ。今年はどこにも行かず、ふたりで家にこもって、励みまくろう。
それに、夫の実家へは行きたくなかった。“産まない嫁”と言われたことが、どうにも忘れられず、義父と笑って話せる自信がなかった。
“産まない嫁”でなくなるまでは、夫の実家に行くもんか。
でも、夫にとって正月は祖母や両親と過ごすもの。私が提案した「新春・子づくり合宿」に、夫はおずおずと難色を示した。
悲しかった。両親の前で“産まない嫁”と言われたことで、私がどれほどつらかったか、夫は理解してくれていると思っていた。
それなのに、私のつらさを代弁して伝えることもせず、“産まない嫁”を不満に思っている義父と、なにごともなかったように正月の乾杯をしろと言うのか。
鬼か? 敵か? ただのバカか?
「なんで、そんなことが言える?! 私ばかりが、どうしてこんなつらい想いをしなくちゃいけないの!」
たぶん、私は初めて、夫に対して怒鳴ったと思う。悲しくて、悔しくて、腹が立って。泣きながら。
結局、夫は折れてくれて、その正月はふたりきりで過ごした。氏神様に初詣して、ちゃんと“ひめはじめ”もした。そのあとは、受精しやすいように願いを込めて、新年早々の逆立ちもいつもより長めにやった。
でも、合宿の成果は出ず。
その後、2月も3月も4月もダメだった。
そして5月。出張の空き時間に、名古屋に嫁いだ旧友に会った。彼女の4歳の息子にも。4歳、つまり、私の初めての妊娠が出産に至っていたら同い年。
こんなに大きくなっているはずだったのか。
そこでまた、強く焦りを感じた。早く、妊娠しなければ、出産しなければ。
もう、来月、採卵しよう。
そう決めた途端、私の卵子か夫の精子か、もしくはそのどっちもか、が本気を出した。続きは第8回にて。
写真のこと:ひさしぶりに神戸でライブをして、地元の古着屋でバイトしてた頃の仲間と朝まで語った。二日酔いで駅まで行く途中、太陽に向かって手を伸ばす葉っぱたちに遭遇。
吉田けい
よしだ けい
1976年生まれ。編集者・バンドマン。2010年、6歳下の夫と婚前同棲をスタートして早々に、初めての妊娠&流産を経験。翌年に入籍するも、やっとの妊娠がすべて流産という結果に終わる。その後、自然妊娠に限界を感じ、40歳になる2016年に体外受精を開始。2018年11月、構成・編集を手がけた書籍『LGBTと家族のコトバ』(双葉社)を出版。