僕は癌になった。妻と子へのラブレター。

だから本当にありがとう|幡野広志「ラブレター」第39回

健康なときは気づかないこと

コピーライト 幡野広志
大昔、子どもの死亡率はとても高かったそうだ。成長の節目を祝い、これからの成長を願うことが七五三の起源という話をどこかで聞いたことがある。

大昔と比べれば現代の子どもの死亡率はガクッとさがった。衛生環境や経済や医療などの水準が向上したからだろう。とてもいい時代に子育てができていることがありがたい。息子はもうすぐ5歳になる、今年が七五三だ。

幡野家では息子が5歳までに死亡するリスクよりも、お父さんが息子の七五三を見ることなく死亡するリスクのほうが高いというふざけた家なので、ぼくとしては七五三がとても感慨深い。

もちろんそういう家は大昔にもたくさんあったはずだ。大人の死亡率だって高く、寿命だって短かっただろう。おそらくいろんな感染症でたくさんの人が亡くなっていたはずだ。きっと七五三は親と子の双方にとってのお祝いであり、願いだったのだろう。

ぼくが病気になったとき、息子はまだしゃべることができなかった。それがいまではサーファー御用達の駐車場で洋服から袴に着替えて、砂浜を歩きにくそうに進んでいる。砂浜が歩きにくいのではない、袴が歩きにくいのだ。そんな姿を眺めることができることが、どれだけしあわせなことだろうか。

歩くのに疲れた息子が妻におんぶをお願いしていた。どこかの殿様と従者のようにも見えなくはない。妻が息子をおんぶした姿は参勤交代のワンシーンにも見える。

ぼくは息子のことをおんぶしたことが一度もない。めんどくさいからやりたくないわけじゃない。ぼくの病気はバランスを崩して転ぶという、これまたふざけた症状がある、人体の神秘だ。

しかも骨が脆くなっていて骨折をしやすいので、息子にとってもぼくにとっても安全上の理由でおんぶができないのだ。平坦な道では抱っこができるので、息子の温もりと重さに最初の5分だけはしあわせを感じることができる。

春が終わるような気温の中で息子をおんぶする妻をみて、病気になったばかりの頃のぼくだったら、後ろめたさを感じていただろう。自分が足を引っ張ったり、役に立てていない存在ということに居心地の悪さを感じて、どこかに消えていなくなりたいとおもっていたかもしれない。

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写真家という人生を選んでよかった。すこしオーバーなことをいうと、写真で命びろいをしたようなものだ。些細なことかもしれないけど、家族の写真を撮ることで家族の役に立てているという実感を持つことができている。レストランで働く料理人が、家庭でも料理を作るようなものだ。

いまではどこかに消えていなくなるどころか、後ろめたさを感じるどころか、おんぶをしてもらって笑顔の息子を、ぼくも笑顔で撮影できるぐらいの心の健康を持っている。病気になってみて心身ともに健康がいかに大切なのかわかった。あんがい健康なときは気づかないものだ。体が不健康になったら心の健康を保つことが大切だ。

たくさんの「ありがとう」をくれるから

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こないだ保険会社からインタビューを受けたんですよ。「病気になったら治療だけじゃなくて、なにかの役に立つことが大切ですよ」って話をしたんです。ノーベル賞とかオリンピックとかそんなことまでしなくてもいいんだけど、日常的に誰かから「ありがとう」っていわれるって大切なことなんです。

病気になるといろんな人に助けてもらうから「ありがとう」をいうことがたくさんあるのだけど、自分が足を引っ張っているようですこし後ろめたいんだよね。それでいて社会保障の恩恵はしっかりと受けるから、まだ仕事になれない新人アルバイトにも似た居心地の悪さがあるんです。みんなの足を引っ張ってるけど、みんなと時給はほとんど一緒みたいな感じ。

「ありがとう」って無限にわくものだとおもいがちだけど、たぶん本当は有限で「ありがとう」をいわれないと、段々と誰かに「ありがとう」がいいにくくなってしまうんだよね。もしかしたらお金とちょっと近いものかも。「ありがとう」を稼がないと「ありがとう」を消費しにくくなります。

健康なときは仕事のやりとりでいくらでも「ありがとう」を稼ぐし「ありがとう」を消費するわけじゃないですか。だから仕事をするって結構大事なことだし、消費した「ありがとう」は誰かの稼ぎになってるわけです。

不思議なもので「ありがとう」は循環させるものなんです。これを逆手にとったのがブラック企業で、ありがとうがあればお金も休日も不要ってことじゃないよ。

自分でいうのはアレだけど、ぼくは心のほうはしっかり健康です。仕事をしているからってこともあるけど、プライベートではキミがたくさんの「ありがとう」をぼくに与えてくれるからです。

キミは意識しているかわからないけど、キミはよく「ありがとう」をぼくにいいます。キミが仕事でたくさんの「ありがとう」を稼いでいるからだともおもいます。ぼくは家事が好きなんだけど、それはキミの「ありがとう」があるからです。正直なところ料理や洗い物や掃除にギャーギャーと文句をいわれたら、自主的にはやらないかも。

そう考えると、うちではありがとう経済が好循環していて好景気です。だから本当にありがとう。ちょっと早いけど、優くんの七五三おめでとう。11月までに七五三のいい写真を撮るよ、一生残せるぐらいの写真を撮ります。おんぶはできないけど、ぼくのできることをするよ。

また書きます。

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幡野広志

幡野広志

はたの・ひろし

1983年生まれ。
写真家・猟師。妻と子(2歳)との3人暮らし。2018年1月、多発性骨髄腫という原因不明の血液の癌(ステージ3)が判明。10万人に5人の割合で発症する珍しい癌で、40歳未満での発症は非常に稀。現代の医療で治すことはできず、余命は3年と診断されている。 https://note.mu/hatanohiroshi