妊娠はするものの流産や死産を繰り返す「不育症」。原因が分かれば治療法が分かる場合もあるが、検査するもまったく異常なし。そして現在まで、いつか奇跡的に出産までたどり着けることを信じて、ただひたすら子づくりに励む日々が続く。そんななかで見つけた、養子縁組という、もうひとつの“母になる方法”。そんな42歳の編集者&バンドマンによる不妊治療と養子縁組の泣き笑い日記。連載第9回、「流産のことは、もう言うまい。誰にも。身近な友人であっても。」と心に誓うまでの道のり。
「それは、まさにつわりだよ」
3度目の流産および2度目の掻爬(そうは)手術を終えてから胃腸がぶっ壊れ、1ヶ月が経った。私の体は、あっと言う間にしぼんでしまい、体重は5kg減った。
その頃には、調子のいい時は温かな液状のもの、あるいは口の中で噛み砕いてドロドロにして飲み込めるものであれば、口にしても大丈夫になっていた。
しかし、調子の悪い時の胃痛は容赦なかった。
雑誌の仕事でレストランを取材した時、どうしても試食しなければならなくて、ドロッドロッになるくらいに噛み砕いたけれども、ダメだったことがあった。
その取材からの帰り道、立てないほどに痛くなり、新宿の駅前の道端に背中を丸めて座り込んだ。携帯していた胃薬を気休めに飲んだが、胃痛は収まらない。
そんなタイミングで、友人からメールが届いた。なんの用事だったのか、申し訳ないが忘れてしまった。でも、「胃が痛くて動けなくて新宿の道端に座ってる」と伝えると、「車で迎えに行こうか?」と言ってくれたのを覚えている。
確か当時は3歳と1歳だった子どもを育てている忙しいママに、そんなお願いはできないと思い、丁重にお断りしたが、心配した友人は私の症状をメールで細かく聞き出してくれた。
そして返ってきた言葉は「それ、つわりなのでは」。
流産したことは、友人の誰にも告げていなかった。でも、ここは伝えたほうがいいと思った。つわりのはずがない、私は流産したのだから、と。
友人は驚き、自分自身の流産経験も打ち明けてくれた。そして、そのままメールで思いやりに満ちた慰めの言葉を受け取っているうちに、なんとか歩けるようになり、その日は無事に帰宅することができた。
そして数日後、その友人から「体調はどう?」とメールがあった。私は、病院に行っても胃痛薬や鎮痛剤が処方されるだけで、相変わらず原因は分からないままだと伝えた。
すると、また「つわりではないの?」と返ってきた。つわりになれるもんなら、なりたかったよ、と悲しい気持ちになりつつも「胃痛嘔吐下痢はつわりなの?」と聞くと、友人は「まさにつわりだよ」と。
ああ、もう「つわり」という言葉を見たくない。
終いには、「このなかから食べられるものがありますように」と、“つわり中に食べたいものランキング”のリンクまで送ってくれた。私には、友人の意図がまるで見えなかった。流産したって言ったよね?
流産できるだけマシ?
友人は本当に私を心配してくれて、いろいろ調べて情報をシェアしてくれたのだろう。私の胃痛は、まだ妊娠していた頃の影響があるのではないか、ということまで、想定してくれていたのだと思う。
心配してくれたことはうれしい。でも、流産した私が、妊娠している人が体験するつわりというものに苦しめられているなんて、例え話としても考えたくなかった。
こんなことなら、流産したって言わなきゃよかった。
そう思ったことが、ほかにもある。
我が家の近くに来ているから「お茶しよう!」と、別の友人が連絡をくれた。とっても久しぶりのお誘いだったので、喜んで会いに出かけた。
しかし、胃痛の調子が悪くて食べられないと言う私を心配して、友人が「ストレスなんじゃない? なんかあったの?」と聞いてくれた。
そして、よせばいいのに、私はそのままを伝えてしまった。
すると、「あなたはまだいいよ。私なんて、結婚さえもできてないのに……」。彼女の目には涙が浮かんでいた。
なんて言ったらいいのか分からなかった。完全に私が悪い。自分の辛さで頭がいっぱいで、相手の気持ちを考えることができないでいた。
ごめんなさい。
誓って言うけれど、私は、この2人の友人のことがとても好きだ。今も、気安く笑いあえる大切な友人だ。
そんな友人たちのことさえも、4年前の当時は少し遠くに感じてしまった。流産って、本当に嫌なもんだなぁ……。
流産のことは、もう言うまい。誰にも。身近な友人であっても。
そうして、友人とのやりとりで勝手にダメージを深めた私は……、続きは第10回にて。
写真のこと:仕事で取材対象の方を撮影するため、代々木公園へ。トンボがいるなぁ、とあたりを見渡すと、ウジャウジャいたのでちょっと引くとともに、秋が深まっていくのを実感した。
吉田けい
よしだ けい
1976年生まれ。編集者・バンドマン。2010年、6歳下の夫と婚前同棲をスタートして早々に、初めての妊娠&流産を経験。翌年に入籍するも、やっとの妊娠がすべて流産という結果に終わる。その後、自然妊娠に限界を感じ、40歳になる2016年に体外受精を開始。2018年11月、構成・編集を手がけた書籍『LGBTと家族のコトバ』(双葉社)を出版。