妊娠はするものの流産や死産を繰り返す「不育症」。原因が分かれば治療法が分かる場合もあるが、検査するもまったく異常なし。そして現在まで、いつか奇跡的に出産までたどり着けることを信じて、ただひたすら子づくりに励む日々が続く。そんななかで見つけた、養子縁組という、もうひとつの“母になる方法”。そんな44歳の編集者&バンドマンによる不妊治療と養子縁組の泣き笑い日記。連載42回、子作りから離れ、海外へ。
体外受精をやめるか、どうか
全身麻酔から目覚めて、病室の天井を見つめるのも、もう5回目。
喪失感と劣等感と焦燥感と絶望と怒りが、私の体内でワーワーと騒いでいた。
……いままでは。
今回は、ガラスを1枚隔てた向こう側で騒いでいるのを、
こちら側から静かに見ているような感じだった。
手術台に横たわって、点滴の針を何度も刺し直されているときから
隣の分娩室からの産声を聴きながら、流産手術の開始を待っていたときから
やっぱりどうしたって、わたしは冷静だったのだ。
もうこれで体外受精をやめるか、どうか。
そんなことを考えていた。
「これで最後」とか言って、採卵して移植したのに、
諦めの悪いわたしは、この期に及んで、もう一度トライしたい気持ちを
完全に消滅させることができずにいた。
点滴の袋からポツポツと落ちてくる水滴を、ぼんやり眺めながら、
どうしようどうしようと答えを探してみるけれど見つからない。
体は手術によって強制的にリセットされた。
でも心はずっと妊娠と出産にとらわれたままだ。
仕事とバンドと子づくり。
ここ10年近く、わたしは、この3つで人生をほぼ隙間なく埋めていた。
いっそ、それらを手放してしまったら、心もリセットされるかも。
ちょうど、妊娠発覚から、仕事もライブも新規オファーを受けるのを控えていたし、
いま抱えている案件を一気に片付けてしまえば、2ヶ月くらいは自由時間ができる。
ひとりで海外に行こう。
不意にポロッとこぼれ出て、コロコロ転がりながら大きくなっていく思い付きを
わたしは病室のベッドの上で、しっかりと捕まえた。
子ども以外に目指すべきもの
「これからどうするか考えるために、ひとりで海外に行ってくる」
夫は驚いていたけれど、「いいなぁ、俺も行きたい」「気をつけてね」と
引き止めるようなことは一切せずに、すんなりと認めてくれた。
6月5日の流産手術から数日は極力安静に過ごし、さらに3ヶ月は子づくり禁止。
わたしは手術のあとすぐに、7月から約2ヶ月の過ごし方を練り始めた。
アメリカで、本物のブルースを体感したい。
60年代のソウル、特にディープソウルが大好きで、バンドでも弾き語りでも、
そのあたりの名曲をカバーしているわたしにとって、
ソウルの先祖であるブルースやゴスペルの故郷を訪れることは
いつか果たさねばならない使命くらいに思っていた。
滞在先に選んだのはシカゴ、メンフィス、クラークスデール、ニューオーリンズ。
シカゴでは、せっかくだからと語学学校にも通った。
どの街に滞在しているあいだも、昼は博物館など音楽に関する名所を巡り、
夜は必ずライブバーに通って、地元の腕利きミュージシャンたちの演奏を浴びた。
幸運だったのは、音楽をただ聴くだけでなく、演奏をする機会を得たこと。
教師からの勧めで、語学学校のラウンジでミニコンサートを開かせていただき、
現地で知り合ったギタリストに誘われて、ライブバーのステージでも歌った。
わたしなんぞの歌なんて、まったく大したもんではないけれど、
海外にも、なんとなく聴いてくれて、それなりに喜んでくれる人がいることを知って
もっと多くの人に聴いてほしいと思ったし、腕を磨きたいと思った。
そうこうしながらも、滞在先のホテルで原稿を書いたり、企画を立てたり、
打ち合わせしたりと、日本での通常の仕事もこなした。
子どもが産めない自分は生き物として欠陥があるのだと
自分を責めていたこともあった。
でも、子どもが産めなくても、やれることは他にもいろいろあるのだと
わたしの人生には、まだまだ目指すべきものがあるのだと
改めて気づくことができた。
続きは第43回にて。
写真のこと:日曜の夕方、公園からの帰り道。持ち主を待つボールと、「迎えが来るといいね」と去ろうとする夫の足。夕陽にじわりと照らされながら、ポツンとたたずむボールには、命に似たぬくもりがあった。
吉田けい
よしだ けい
1976年生まれ。編集者・バンドマン。2010年、6歳下の夫と婚前同棲をスタートして早々に、初めての妊娠&流産を経験。翌年に入籍するも、やっとの妊娠がすべて流産という結果に終わる。その後、自然妊娠に限界を感じ、40歳になる2016年に体外受精を開始。2018年11月、構成・編集を手がけた書籍『LGBTと家族のコトバ』(双葉社)を出版。