大丈夫、大丈夫だよ
新宿駅から自宅のある八王子駅まで帰るときは、特急かいじをなるべく利用する。快速なら50分ほどで八王子駅に到着するけど、混みがちな中央線で50分立っているのはけっこうキツい。電車遅延の理由によくある「急病人を救護していて〜」ということにもなりかねない。
見たかったテレビを見逃してしまったり、待ち合わせに遅れさせてしまったり、いますぐトイレに行きたい…という状況を数万人にさせてしまうより特急料金を払って指定席に座って帰った方がいいだろうし、こちらの体力的にも正解だ。この日は19時ちょうどに八王子駅に到着する特急かいじに乗車した。贅沢にグリーン車だ、贅肉とよく合っている。
帰宅したら息子とiPadのゲームを一緒にやる約束をしている。妻はご飯を作っているだろう。ぼくはコンビニでアイスをお土産に買って帰ろうかと、八王子の街を眺めながら考えていたら、すでに八王子駅を通過していた。やっちまった乗り過ごした。寝過ごしたわけじゃなくて、降りる駅をしっかり眺めながら乗り過ごした。
快速なら2kmほど先の西八王子駅に止まる。だけどいま乗車しているのは特急かいじ。次に止まる駅は40km離れた大月駅だ。ちなみに新宿駅から八王子駅もだいたい40kmの距離だ。こういうときは慌てない、慌てても事態は一切好転しない。むしろ慌てることで事態が悪化する可能性がある。大月駅を乗り過ごしたら大変だ。大月駅の先はさらに30kmほど離れた山梨県甲州市の塩山駅になる。終着駅は竜王駅だ。塩の山や竜の王がいるのか、駅名だけ見ると旅好きとしてはむしろ行きたくなる。かっこよすぎだろ塩山も竜王も。
そんなこといったら大月だって八王子だってかっこいい駅名だぞ。大きな月だし、八人の王子の駅だ。こういう空想をしているから乗り過ごしてしまう。車内精算で料金を支払ってグリーン車で乗り過ごしながら空想をする。とても贅沢な時間だ。
冷静になって妻に連絡をする。ぼくは妻に怒られたことがほとんどない。だから正直に理由を伝えられる。もしも怒る人だったら、仕事が遅くなったとか体調が悪くなったとか誤魔化しているだろう。誤魔化さなくていい関係というのはとても楽だ。
だけど息子はもしかしたら怒るかもしれない。一緒にゲームをするという約束をしていたのだ。息子が起きている時間に帰ってこれるか微妙だ。息子にあやまりの伝言をしてもらうと「大丈夫、大丈夫だよ」と息子から返事がきた。
大月駅で折り返しの電車がくるまで駅前を散策して写真を撮った。河口湖行きの電車があって乗りたくなったけど我慢をした。お土産はアイスじゃなくて大月駅近くのコンビニで買った信玄餅になった。帰宅すると息子はまだ起きていた。うれしそうに迎えてくれた。もうすぐ寝る時間だったけど一緒にゲームをした。
だからぼくも君に怒ることはない
うちは誰かが失敗しても怒らない家庭だとつくづく思ってます。怒ることのメリットをぼくが感じていないからだと思います。失敗したときに大切なのは事態を悪化させないこと、それから失敗への対処だと思うんです。事態を悪化させる原因が慌てることだとぼくは思うんです。
子どもがコップのお茶をこぼしたら、コップを戻してこぼしたお茶を拭くという対処が必要だけど、親が怒ったら子どもは泣いて萎縮してなにもできなくなっちゃうと思うんです。ぼくも撮影現場で新人アシスタントのとき、よく怒鳴られて頭が真っ白になりました。怒鳴られまくると右と左を間違えたりするんですよ。ちょっと仕事を覚えてくると失敗したら怒鳴られるから、失敗を隠すような不良アシスタントでした。
そもそもぼくと優くんの体重差でぼくが怒鳴ったらめちゃくちゃ怖いと思うんです。ぼくだってアフリカゾウに怒鳴られたら怖いもん。怒ることで相手を慌てさせるなんて、子どもでも大人でもマジですっごい簡単なんだよね。それに怒られるんじゃないかと思って、失敗して困っていても相談をしなくなるような気もするんです。
これまでに優くんがなにか失敗をしたとき「大丈夫、大丈夫」と声をかけて対処を教えてきたよね。電車を乗り過ごして大月まで行くのはお父さんの失敗なんだけど、優くんがぼくに「大丈夫、大丈夫だよ」っていってくれたのは、これまでの言葉が返って来たんだなと思いました。誰かの失敗に対する対応が「大丈夫、大丈夫だよ」ってまずは声をかけることだと学んだのかもしれません。
もしぼくが優くんの失敗に怒りまくる人だったら、優くんも怒ったんじゃないかな。もしくは心のなかで、「なんだコイツ」って軽蔑がはじまったかもしれません。ぼくも失敗をするから、優くんの失敗を怒れないんだよね。職場とかでも誰かの失敗にめちゃくちゃ怒ってる人ほど、自分の失敗には寛容だったりして嫌われてるじゃん。誰からも相談もされず孤立して、自分が失敗したとき誰も助けてくれない人っているよね。
子どもの失敗ってそもそも大した失敗じゃないよね。大人の失敗の方が大変ですよ。失敗に対処するためには、子どもの頃から失敗に対処できるようになることだと思うんです。それから失敗を怒らない人が周囲にいることだと思うんです。ぼくの失敗に怒らないでいてくれてありがとう。だからぼくも君に怒ることはないです。失敗を隠す必要がない関係というのはとてもいいものです。
また書きます。
この連載が本になりました。
とてもとてもうれしいお知らせです。
この連載の第1回から第48回までをまとめた一冊「ラブレター」が発売されました。
幡野広志
はたの・ひろし
写真家・猟師。妻と子(2歳)との3人暮らし。2018年1月、多発性骨髄腫という原因不明の血液の癌(ステージ3)が判明。10万人に5人の割合で発症する珍しい癌で、40歳未満での発症は非常に稀。現代の医療で治すことはできず、余命は3年と診断されている。 https://note.mu/hatanohiroshi