妊娠はするものの流産や死産を繰り返す「不育症」。原因が分かれば治療法が分かる場合もあるが、検査するもまったく異常なし。そして現在まで、いつか奇跡的に出産までたどり着けることを信じて、ただひたすら子づくりに励む日々が続く。そんななかで見つけた、養子縁組という、もうひとつの“母になる方法”。そんな42歳の編集者&バンドマンによる不妊治療と養子縁組の泣き笑い日記。連載第11回、夫の実家で年を明かした後、「不育症セット」に挑む。
夫の実家で大暴れ
義父に“産まない嫁”呼ばわりされ、子どもを産むまでは行くまいと心に決めていた夫の実家に、正月休みのタイミングで、1年と半年ぶりに帰ることにした。
ひさしぶりに姿を現した私を、義父も義母も、ばあちゃんも、あたたかく迎えてくれた。いつもどおりに優しくしてくれた。そう、意地を張っていたのは私だけ。夫家のみんなは、いつもあたたかい。
ポロッと義父がこぼした本音に、いつまでもしつこく傷ついたふりしていた自分を恥じた。
その年越しのご馳走はカニだった。「おぅい、飲むか?」と、義父はとっておきの日本酒を私の盃に注いでくれた。カニ味噌と日本酒……最高な組み合わせに、ついつい飲みすぎた。
気がついたのは、夜明け前のこたつの中。
酔っ払って、風呂にも入らず、こたつで横になったまま新年を迎えてしまったようだった。横を見ると夫も寝ていた。記憶がない。まったくない。
とにかく風呂に入ろう。
そして、脱衣場の鏡に映った自分の顔を二度見した。だ、だれだアンタ……?
目がパンパンに腫れて、完全に人相が変わっていた。
驚いて、夫を揺り起こした。な、なにがあったの……?
聞いたところによると、酔っ払った私は、年越しの宴の席で、流産を繰り返している自分がいかにつらいかを泣きながら語り、今年は不育症の検査をして、体外受精もやろうと思っているのだから見守ってくれと、義父と義母に何度も詰めよったのだそう。
まぁ、それ以外にも、言わなくてもいいことをたくさん語っていたそうだが……。それは、もう積極的に記憶から消しました。
そんなわけで、新年最初の(素面での)挨拶では、夫家のみんなに「酔っ払って絡んでごめんなさい」と頭を下げた。みんなは、いつもどおり。「風邪ひかんかったけー?」と、あたたかかった。
いざ、不育症検査!
残りの1月は、セカンドアルバム用のアーティスト写真やミュージックビデオを撮ったり、京都や新潟へ出張したりと忙しく、あっと言う間に終わった。
そして2月。いよいよ不育症検査を受けるため、西新橋のJ病院を訪れた。
受けた検査は、その名も「不育症セット」。出血凝固検査とか血小板凝集能検査とか、なにを調べるのか分かりそうなものもあれば、ほとんどがALTやらSTSやらAPTTやら、名前からではなにがなにやらなものばかりの検査をひととおり受けた。
そして、念のため、夫婦そろって染色体検査も受けた。
超音波を使うこともあったが、このセットでは検査のほぼすべてが血液検査。とにかく血液をどっさりと抜かれるのだ。
「はい、じゃあ、採血しますね」と、看護士さんが持ってきたトレイには、針のぶっとい注射器が10本くらい入っていた。
看護士さんは手際よく、私の血液をグングン抜いていく。
「ハイ2本目〜、まだまだがんばってね〜」
「ハイ5本、まだよ〜」、注射器の山を見たときは血の気が引く感じがしたが、本数を重ねるうちに、だんだんと気持ちよくなってきた。血液を大量に抜くのって、けっこうなデトックスなんじゃないか?
なんだか心も身体もスッキリした。血液と一緒に、いろんな毒気も抜けたのか?
結果は1ヶ月後とのこと。なにか異常が見つかれば、治療できるかもしれない。なにか見つかってほしいような、ほしくないような……微妙な気持ちで1ヶ月を過ごした。
さて、結果は? 続きは第12回にて。
写真のこと:うちのマンションは1964年生まれ。外壁もかっこいいし、ロビーの応接セットもイカしてるし、階段も美しい。木と鉄と石の組み合わせに、何度見てもときめく。だからエレベーターでなく階段を使うことも多い。住んでるの、5階だけど。
吉田けい
よしだ けい
1976年生まれ。編集者・バンドマン。2010年、6歳下の夫と婚前同棲をスタートして早々に、初めての妊娠&流産を経験。翌年に入籍するも、やっとの妊娠がすべて流産という結果に終わる。その後、自然妊娠に限界を感じ、40歳になる2016年に体外受精を開始。2018年11月、構成・編集を手がけた書籍『LGBTと家族のコトバ』(双葉社)を出版。